TOLD BY TOSHIKO TAGUCHI RECALL: HEDI SLIMANE 4
『MRハイファッション』の編集長が出会ったデザイナー。 「エディの、コングラチュレーション」
2003年に『MR』が惜しまれながら休刊した後、田口さんは、およそ1年半を経て2005年6月号から『ハイファッション』の編集長に就任した。レディスとメンズの両方を一冊の誌面に取り込み、これまでになかった英語とのバイリンガル表記の方針をとったリニューアル号以降の日々を振り返りながら、「ほんとうに難題続きでした。レディスとメンズのページのバランス。イメージのズレをなくすこと。それに、紙の媒体である雑誌にとっての文字は、読者に明快に読んでもらうことに加えて、グラフィックの一要素として、写真と整合させなくてはいけない。当時の私にとって英文と和文の併記は決して美しいと思えるものではなかったのです。『MR』の時とはまったく別種な課題がいろいろあって、ずっと模索し悩んでいましたね」と話す。
そして2008年、田口さんは編集長から、文化出版局が発行する雑誌全体を管轄する、エディトリアルディレクター(雑誌部長)の任に就くこととなった。「その年、ディオール オムのクリエイティブディレクターを退任し、ロサンゼルスに生活の拠点におきながらライフワークでもある写真を撮り続けていたエディから、『7月に日本に行くので、ランチが終わった頃にでも30分ぐらい会えませんか?』と連絡があったのです」
「六本木のグランドハイアット東京でエディと再会し、幸いなことに自分の口から直接彼に、『ハイファッション』の編集長の立場を離れることになったと伝えました。私は大事な話をするとき、言葉を聞き漏らさないように、相手と対面ではなくできるだけ直角に座ることにしているのですが、エディは、私のほうを横目で窺い見るようにして、『congratulations』と、か細い声で言ったのです。部長職になるのは一般的には昇格、おめでたいことなのでしょうが、直角に座らなければ聴きとれないようなエディの小さな声は、心から祝福しているようには思えなかった。私はとっさに、『I want to walk at field forever』と拙い英語を口にしていました。エディはすぐに『me too』とこたえた。編集の現場から遠のいてしまう役職になんかなりたくないという私の“本音”を、彼は一瞬にして見抜いたのだと思います。そして、同席していた秘書的な役割の方とフランス語で話をしたあと、『田口さんが編集長としての最後の号に自分の撮った写真をプレゼントしたい』と、優しく、日本人的な義理堅ささえ感じさせる、思いがけない申し出をしてくれたのです」
写真集『ロックダイアリー』をリリースしたばかりだった彼から、「最近の日記」なのだと言葉が添えられて編集部に届いた10枚の写真は、貴重なメールでのインタビューとともに『ハイファッション』の2008年12月号に掲載された。「校了の直前までページを開けて、エディからの“贈り物”の写真が届くのを、弾んだ気持ちで心待ちにしていました」
エディは、『MR』のことを「世界でも稀有な、文学や哲学を感じられるモード誌」だと語ったことがあるという。日本語を読むことのできない彼は、英語と日本語が併記されたタイトルや小見出し、あるいはレイアウト、ページが目指すテーマ性などといった、誌面に込められた複層的なエッセンスから、『MR』がコアとして貫いてきたものを洞察したのだろう。
「人伝てに耳にした、そのエディのコメントは、後から考えると、『MR』がどのような性質の雑誌であるかを完璧に代弁してくれたのだと思っています。編集する当事者たちは目の前の仕事に熱中するだけで、そんなことには考えが及びませんから。エディと私はプライベートの交友関係が深いわけでは決してありません。彼は、あくまで『MR』や『ハイファッション』という雑誌を通して、私が目指すところの着地点を深く理解してくれていたのです。そして私は、服を通してエディを理解してきた。僭越な言い方になりますが、彼と同じ方向性とレベルのものを志向していたという事実がほんとうにうれしいのです。私の声色を見抜いた優しく誠実な眼差しからも明らかなように、エディは、あらゆるクリエイターの中でも、物事や人の本質を見る力に圧倒的に長けている。それは今でも変わってはいないことでしょう」
田口淑子 Toshiko Taguchi
1949年生まれ。『MRハイファッション』と『ハイファッション』の編集長を務め、現在はフリーランスのエディター。
Text_ TATSUYA YAMAGUCHI