INTERVIEW ABOUT MARGIELA / TOSHIKO TAGUCHI

1. 映画『マルジェラが語る“マルジェラ”』 の感想をお聞かせください。

モードの改革者、挑戦者といった外部の絶賛の声をマルジェラはどんな思いで受け止め続けてきたのでしょうか。彼が子供の頃、お父さんのバーバーで、カットされ床に散らばった髪の毛を手にとって眺めたり、バービー人形で飽きずに遊んでいた、その延長線上に彼の創作はあったのだ、やっぱりそういう子供だったのだと、映画を観てすっと腑に落ちました。一人遊びが好きな内気な子供にとって、なんと豊かで贅沢な、“子供の王国”のような環境で育ったのだろうと、見ていて幸せな気持ちになりました。私の子供の頃、床屋さんと歯医者さんの椅子は、外国の王様の椅子のように大きくて立派だと思っていたのを思い出して、懐かしい気持ちになりました。70年代私はもう大人だったので、バービー人形では遊ばなかったけれど、40歳を過ぎた頃に無性に欲しくなってバービーを買いました。好きな布地で手縫いの服を作ってあげたいと思ったのに実行できず、バービーは購入時の90年代風の服のまま本棚に飾ってあります。こんな風に、90分の映画の多くの場面で立ち止まり、エモーションを掻き立てられました。モノローグの声の調子は終始穏やかで、服を作る喜びも葛藤も、じかに静かに語りかけられているような気持ちになりました。

2. マルタン・マルジェラの服を目にした最初の瞬間はいつ、どこでしたでしょうか? その時の感想をお聞かせください。

実物の服ではなく『HF』の誌面の、ショーを取材した写真で初めてマルジェラの創作を知った。私は舞台が好きで、気になるもの(古典も前衛も)は時間を都合して観てきたが、30代の頃、ポーランドの前衛作家で演出家のタデウシュ・カントールのエキシビションで、これまで一度も見たことのない造形の美しさを見て衝撃を受けた。なぜファッション界には、作品と一体化する空間を作り演出する人がいないのだろうと、その頃は何かが物足りないショーがほとんどだった。初めて『HF』で見たマルジェラの、ハンガーラックや鉄棒のような無機質でシンプルな器具を会場に配したインスタレーションは、カントールの展示空間を思い起こさせてくれた。作品と空間を同化させることのできるデザイナーがようやく出現したと感銘を受けたのです。ちなみに後年パリコレに行くようになっても、会場がカルーゼルのショーは服だけに集中して見て、空間はあまり見ないことにしていた。そうしないと、ショーがクリエーションではなくビジネスの発表の場に思えてしまいそうだったから。

3. 最も印象的なマルタン・マルジェラのショーやアイテム、表現方法などについて、思い出やご意見などをお聞かせください。

『MR』の時に初めて訪ねた、マルジェラのメンズコレクションはショー形式ではなく、ルーブル美術館の建物の端の、斜向かいのカフェを借り切っての展示会だった。白いローブのスタッフの方たちが、取材者ひとりひとりと一対一で会話するように丁寧に作品を説明してくれる展示会で、まさにマルジェラの家(メゾン)に招かれたような気持ちになりました。

4. ファッション史を振り返って考えてみた時、ファッションデザイナー マルタン・マルジェラ はファッション界にどのような影響を与えたと思われますか?

トレンドという空虚なテーマにとらわれることなく、自分自身の個人的な価値観に沿って服を作ってもいいんだ、ということを多くの人に気がつかせてくれたこと。常識から解放させてくれたこと。ファッションデザイナーに限らず、建築家、編集者、書籍や雑誌の装幀家、インテリアデザイナー、料理人、カフェのオーナー、多くの職業人に、自由に発想してもいいんだという仕事への喜びを与えたと思う。古い建物をいとも簡単に壊しては新規なビルを建て続けてきた東京の愚かな慣習が、2000年代になってから少しずつ変化してきた。東京の隅田川沿いの下町の倉庫街、京都の古い町家、地方都市でも古い民家を壊さずにリノベーションする人たちが増えてきた。これも、若い頃にマルジェラの創作に影響され共感した人たちが社会人になって(クリエーターだけでなく、おそらく行政などの関係者も)、心地いい街のあり方への意識が目覚めてきたのだと思う。建築からインスピレーションを得るモードは沢山あるけれど、逆に建築に影響を与えるモードは稀にしかない。マルジェラは、建築と街にヒントを与える数少ないデザイナーだと思っています。

5. マルタン・マルジェラが作る服そのものは、他のデザイナーが作る服とどのように異なり、どんな所に凄さがあったとお考えですか?

この映画を観る前なら、前衛的、哲学的……、と答えたかもしれない。でも今は、マルジェラが子供の頃の遊びの中から発見した嗜好性を、繰り返し実験し、新しさを見つけていく極めてパーソナルな手法による表現を、一貫して変えないデザイナーなことが明快になりました。それは簡単なことのようでいて、膨大な時間を内包する凄いことです。

6. 初めて購入したマルタン・マルジェラのアイテムはどのようなものでしたでしょうか? その時のエピソードをお聞かせください。

肩、胸、腰、脚の骨格が細長い、鍛えられたダンサーのような中性的な人がマルジェラを着ている姿はうっとりするほど美しい。いかにクリエーションに共感しても、自分の体躯を客観視すると、私はマルジェラの作品を着ることで自己表現はできないタイプだと思った。でも、編集者としてマルジェラの世界を誌面で紹介し続けることはできるのだと意識を切り替えました。『HF』の、当時副編集長(彼女は背が高くて骨格も理想的)がパリコレ取材から戻ったら、“ずっと欲しかった。やっと買いました”と黒のタビシューズを履いていた。それは彼女のスタイルによく似合っていて、羨ましいというのでなく、同じ編集部にマルジェラに深く共感し、似合っている人がいてよかったと嬉しい気持ちになりました。

7. 今もまだ着用・愛用・所有しているアイテムがありましたら、詳しくお聞かせください。

服ではありませんが、2004年のクリスマスの頃に戴いた白い小さな箱に入った「ウイッシュ・ボーン」と、白い布地を貼り付けた、糸のほつれが美しいルックブックは今も大事にしています。書店で本を手にすると、誰が装幀したのかを最初に知りたくなる癖がありますが、あの白い本(ルックブック)の質感、手触り、ほつれた糸、静かな存在感は初めて見るものでした。そして、恵比寿に東京の路面店ができて、『MR』2001年2月号で取材してから、恵比寿周辺に出かけた時は、ふらっと寄ってみるのが習慣になりました。あの号で、あと2ページ増やして、設計図に基づいた、手書きの詳細な「間取り図」も掲載すればよかった、そうすれば簡単に恵比寿まで行くことができない地方の読者が、ショップの全貌がすっとわかってどんなに喜んでくれただろうと、20年以上経った今読み返してみて気が付きました。

8. 現在、アーティストとしての活動をしていると言われているマルタン・マルジェラですが、いつかファッション界に復帰して欲しいと思われますか? 今後の彼にどのような活動を期待しますか? その理由と共にお聞かせください。

組織が巨大化すると“システム”という怪物に、人の心は侵食されてしまいがちです。創作に関わっていられる時間の長さという点から見れば、例えばビエンナーレ、トリエンナーレという美術展などの開催方法は、年に2度制作に追い込まれるシステムより、よほど人間的でいられる時間の単位だと思うのです。何年かに一度でも、あなたが新たに作りたいものが生まれたら、その作品を私たちが見られる機会を提供してくれることを切望しています。

9. マルタン・マルジェラ本人に、メッセージをお願い致します。

“もうシーズンはない”、身につまされる思いで聞きました。100人いれば100の感慨が生まれるような一言でした。でもおそらく誰にも共通しているのは、この言葉をポツリと語ったあなたへの敬意と、深い感謝の気持ちです。自分一人では気が付くことのできない新しい「美」を提案し、発見させ続けてくれたのですから。

田口淑子

1949年生まれ。『MRハイファッション』と『ハイファッション』の編集長を務め、現在はフリーランスのエディター。
在職中、マルジェラの多くのモードページのほか、『MR』では、2001年2月号、「マルタン・マルジェラの白のリビルディング。」で、東京・恵比寿の世界初の旗艦店を掲載。2001年12月号、創刊20周年特別企画「デザイナーが撮ったポラロイド写真と、ダイレクトなファックスメッセージ」で、28項目の質問とマルジェラからの回答を、マルジェラが撮った写真とで構成する。『HF』では、2005年6月号、リニューアル特集「インディヴィジュアルな白」中、「メゾンマルタンマルジェラは白について、こう答えた。」で編集部からの21の質問にマルジェラから丁寧な回答をもらう。2008年12月号では、モードページの「メゾンマルタンマルジェラ。反復から生まれる新しさ」を巻頭にし、「メゾンマルタンマルジェラの20周年—アノニマスの方式」の大きな特集を組んだ。


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