ART AND MODE VOL.06
共鳴するアートとモード ストリートアートからモードの世界へ グラフィティーアーティスト達の躍進
毎シーズン、ランウェイには多くのアートを宿したアイテムが登場する。そのひとつひとつのアートには選んだデザイナーの確固たる意志が息づき、その背後にはアーティストとブランドの歴史やドラマが存在する。アートとモードの共鳴が産んだ特別なアイテムたち。それらを知らずに着るのはもったいない。その背景を知れば、もっとそのブランドが、そのデザイナーが好きになるはずだ。ハイファッションを通して、アートを知る喜び、着る喜びを感じてほしい。
ファッション業界から最も多くのオファーを受けているアーティストの一人、フューチュラ。直近では、LOUIS VUITTONでのランウェイで行ったスプレーペイント、OFF-WHITE、そしてCOMME des GARCONSとのコラボレーションなどが印象的だ。かつては、違法なスプレーでの落書きと人々から思われていたものが、なぜ、アートとしての地位を確立し、モードの最高峰で輝くまでにいたったのだろうか。時代の流れとフューチュラの過去を振り返ってみたい。
1955年にニューヨークに生まれたフューチュラは、ジャン=ミシェル・バスキアやキース・ヘリング、そしてニューヨークのサブウェイグラフィティアートに影響を受け、1970年代から活動を開始。しかし、74年に友人とグラフティを作成中に火事を起こし、友人が大火傷をおってしまう。一度グラフティから遠ざかるために海軍に入隊するも、78年には活動を再開。サブウェイスクールと呼ばれた地下鉄のグラフィティーシーンの中で独自のスタイルを構築し、やがてそのシーンで台頭していく。80年代になるとバスキアやヘリングなどのストリートアートの先駆者達がアート業界で高い評価を受け、シーンは拡大。フューチュラもThe Clashのカバーを手がける傍らでキャンバスペイントを始め、彼自身の評価も高まっていくが、バスキアとウォーホールの展覧会を最後にシーンは縮小していく。
90年代に入るとフューチュラは、スタッシュとガーブと共にデザインスタジオGFSを設立。その後、ガーブが脱退、新たにブルーが加わりデザインスタジオ兼ブランドBSF(別名:Project Dragon)を新設するも、ブルーが死去してしまう。そんな中、フューチュラは、英国のレーベルMOWAXのジェームス・ラヴェルと出会い、95年に日本ツアーに同行。ここで藤原ヒロシ氏やNIGO氏、高橋盾氏などと運命的な出会いを果たすと、BAPEとのコラボレーションなどで日本のストリートシーンでの認知が高まっていく。98年になるとBSFもRECONという名のブランドに変わり、フューチュラは個人でもアート活動と並行してブランドFUTURA LABORATORIESを立ち上げる。ラボラトリーというブランドの名前通り、フューチュラにとっては様々なデザインを試すと共に、アーティストがファッション業界に進出するという試験的な試みだったのかもしれない。また、アートは、限られた層しか購入できないが、アパレルは多くの層に受け入れられるということを、裏原宿カルチャーを通じて感じていたのだろう。
その後もアーティストとして様々なブランドとコラボレーションをしていくが、ヴァージル・アブローがLOUIS VUITTONのデザイナーに就任すると、大きく時代が動いていく。裏原宿のストリートカルチャーを経験してきたヴァージルは、LOUIS VUITTON 2019年秋冬コレクションのランウェイで、フューチュラにライブペインティングを依頼。その後、自身のブランドOFF-WHITEでもコラボレーションを展開し、鮮やかなグラフィティーをコレクション全体に落とし込んだ。90年代にフューチュラ達が行ってきたことがメゾンに評価された瞬間であると共に、ストリートアートにおいて、新しい章の幕開けであった。ここで取り上げた人物や物事が全てではないが、当時は違法なものと見なされていたストリートアートが先駆者達の功績によりアートとして認められ、その後、フューチュラ達と裏原宿カルチャーの結び付きがアートをより身近なものに変え、そのカルチャーから大きく影響を受けたヴァージルがモードと結びつけた。それに加えて、ここ数年は世界中のニュースでバスキアやバンクシー、カウズなどの話題が飛び交うなど80年代以降で最もグラフィティーシーンが拡大していると言えるだろう。
Text_ SHUHEI HASEGAWA
Photo_ SHOTA YUHARA